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唐の時代の中日文化交流
―――遣唐使円仁について
309-2002 陳
高
峰
はじめに:
中国古代史上では、日本との外交関係に於いて、三大ピークがあった。それは(1)漢の時代、日本と緊密な政治、経済の関係を持っていた。この時期、日本と中国は初めて友好的外交をし始めた。(2)隋唐の時代、中国は封建制社会が最盛期に迎え、日本は中国との政治的、経済的、そして文化的交流を一向深まった。(3)明清の時代に入ってから、日中関係は不幸が被りし始め、両国の交流に陰鬱な影を与えたのである。しかし、古代日中交流の三大ピークの中で、日本に一番影響を与えたのはこの第二のピーク、つまり、隋唐時代とりわけ唐の時代である。今でもこのときの影響が日本社会を響いているのである。序論:
日中交流といえば、はじめで述べたように、古代では三大ピークがあり、そして、それぞれに特徴や原因がある。たとえば:
(1)漢 の時代
概況:中国と日本とがわりに頻繁的な政治と経済の交流関係を持ちし始めた。特徴:日本は始めて中国に使者を遣わし、直接接続での緊密な連絡を立てられた。両方の政府特使の連絡先だけでなく、経済、文化の交流をなされた。
原因:①シルクロードの開通で、世界で漢の経済や文化が、世界の先進国を示したし、大きな魅力を世間に展示した。そして統治者が開明的な外交政策を実施したのである。
そのため、後漢の建武中元2年間(57年)の正月には、倭の奴国王が使節を洛陽に派遣して朝貢をしに来た、光武皇帝の劉秀は倭の奴国王を“漢倭の奴国王”を賜り、「漢倭の奴国印」という印綬を授けた。
(2)隋唐の時代
概況:隋、唐王朝は中国の封建社会の繁栄期であり、経済や文化が世界をリードして、対外交通(陸路、海路)は、過去より発達した。政府の奨励と支持の元で、唐王朝は、欧州やアジアの国々との交流が前例のない以上壭大な盛況に達した。その時では、中国はアジア各国の経済や文化の交流のハブとなっていた。
特徴:①範囲が広い。中国の対外経済、文化の交流空間的範囲はかなり拡大し、東アジア、東南アジア、中央アジア、西アジアを除いて、ヨーロッパ、アフリカにも頻繁的な接触があった。②レベルが高い。中国はすでに東方の経済と文化交流の中心となり、いくつかの近隣諸国の経済と文化の交流が、ただ通常の行き来するに限られていなく、人材育成と経済交流の中心になっている。③兼収併蓄。④政策がさらに開放した。中国への外国投資を奨励し、永続的に中国内に居住する;そして中国人との結婚、中国で公式に官職に仕える。⑤対外交通では水陸を同時に行う。
理由:①唐王朝が強いし、安定した政治環境がある。②経済や文化の世界的リーダーの地位にある。③対外交通は、過去に比べて発達された。④外交政策が開放された。(3)、明清の時代(アヘン戦争前):
概要:①明の前期には頻繁に外国と接触し、東南アジアの発展を促進した。②明の中後期、欧米の植民地は東に始めている、中国は外国の侵略の犠牲者となった:日本からの海賊が南東部の海岸に嫌がらせをし始め、北部国境は、ロシアの侵略を受け、オランダ軍が台湾を侵略し占領、ポルトガルがマカオを占有した。明清政府は侵略に対する闘争をし、反海賊とロシアの侵略闘争の勝利を納めた。鄭成功はオランダの植民者を敗れて台湾を回復した。
特徴:対外政策が開放政策から閉国になり、侵略と反侵略は、この期間の対外関係の要素になっている。
原因:前期開放したのは国家の繁栄と賢明な統治のためであった。後期閉国の原因は、内部要因としては、明、清時代の中国の封建制度徐々に衰弱し、崩壊しにいく;外部要因は海賊が中国南東部の海岸に対する嫌がらせ、と西方の植民者の東来である。
しかしだが、本文は漢の日中交流や明清時代の日中交流を述べるつもりはない、ただ述べたいのは唐の時代の遣唐使によっての日中交流であり。その遣唐使の中の一人として、円仁を見てみたいのである。本論:
唐の時代では、日中交流の架け橋の役として中国に渡って、そして長年に長安に在住し、仏教をとことん研究した留学僧としての円仁はいかにどんな人物であり、そして、日本に中国から何を伝えたのだった、どのように中国で長年滞在したのか?それらについて、見ていこう。1、円仁(794-864)その人
1)背景:紀元七世紀、唐王朝は中国の封建社会の繁栄期であり、経済や文化が世界をリードして、対外交通(陸路、海路)は、過去より発達した。政府の奨励と支持の元で、唐王朝は、欧州やアジアの国々との交流が前例のない以上壭大な盛況に達した。その時では、中国はアジア各国の経済や文化の交流のハブとなっていた。日本の大和皇朝は大化革新を経て、中国の隋唐文明を学び、だんだん強くなってきた。
隋唐の時代には、古代の中日交往の最高潮に達し、日本は前後として13回(「『遣唐使の見た中国』古瀬奈津子 吉川弘文館発行 二〇〇三年(平成十五年)五月一日 初版印刷」によれば、全部で20回であるとある。また、『中日外交発展史』 2004 MPA中日関係
王頴芳によれば、全部で18回だという)に渡って中国に“遣唐使”を遣わした。日本の大化改新は唐王朝の制度を手本とし、都城が唐の都の長安の様式を真似し、各クラスの学校では儒学を教えになって、唐王朝との貿易往来も頻繁になっていた。2)円仁の生涯:
その“遣唐使”の中で、円仁という留学僧がいた。円仁は日本仏教の天台宗の開派人である。彼は日本桓武天皇延歴十三年(唐德宗貞元十年)(西暦紀元七九四~八年)うまれであり、下野縣都賀郡(栃木県都賀郡)出身で、俗姓は壬生氏である。『熊倉系図』の記載によると、円仁の父は首麻呂、かつて都賀郡三鴨駅長を勤め、郡中にある大慈寺の施主であった。円仁の兄は秋主で、従七位下の官職があった。円仁は幼年の時父を無くせ、九歳から兄について「外典」及び「経史」を習って、そのおかげで、彼は小さい時から中国文化と仏教気息の薫陶を受けていた。円仁は「口に俗典を唱え、心に仏乗を慕う」ため、後に原籍の大慈寺名僧である広智の門下で落発した。広智は大慈寺の三祖であり、二祖の道忠の弟子であった。道忠は嘗て平城京に行って日本に東渡ってきた中国天台宗の第四代祖師である鑑真に師事したことがあり、鑑真に「持戒第一」と称される高足であった。同時に広智はまた日本の唐に求法した名僧の最澄に従って密教法を受けた。こんな淵源があったからこそ、円仁は十五歳の時に京都滋賀県にある日本の仏教聖地である比叡山に上り、最澄の膝下に来て、日本天台宗の創作者であった最澄の弟子になった。彼は苦学精進したため、すぐに頭角が露出したし、二十歳に官試に合格し[1]、天台宗仏学研究の高い学位を獲得し、翌年(紀元813年)十二月「遮那業」によって済度された。最澄に従って仏法を習った最前後して十四年間、円仁は最澄の左右について、天台教義を高揚するために厭わずにしていた。弘仁十三年(紀元822年)、最澄は元寂した。それとほぼ同時に、朝廷は最澄が生前に於いて提出された比叡山に大乗園頓戒壇を設立する申請を同意してくれた。そこで、逝去以降に及んで、苦行に励んでいた年がちょうど而立(三十歳)になった円仁は責任を感じて先師の遺志を受け継ぎ、教授師を担当して、壇を開いて法を弘揚した。従って、円仁は入唐して求法巡礼した前に、すでに日本天台宗の知名高僧であった。
承和五年(唐の文宗大和十二年、八三八)勅命を奉じて仏法を求めに入唐し(「『遣唐使の見た中国』古瀬奈津子 吉川弘文館発行 二〇〇三年(平成十五年)五月一日 初版印刷」によれば、円仁が遣唐使として入唐したのは20回のうち19回目のことだった)、唐にいる間で師について仏教の顕密各宗を修習し、長安で長年に住んでいて、唐の名僧に度々教えを習得、また天台山を遊歴し、各地方における密教の奥義を探った。唐の武宗の会昌五年(八四五)に天下の僧侶を俗に返すと命令を下した。唐の宣宗の大中元年(八四七)に日本に帰った。
2、入唐と『行記』
1)円仁入唐:円仁の『入唐求法巡禮行記』は中国唐の時代の社会政治、経済、宗教、文化及び中日両国関係を研究するに貴重な資料であり、日本の学者はこれを「東洋学界の至宝」と称え、玄奘の『大唐西遊記』、『マルコポーロ行記』と並べて世界の三大旅行記と言われ、世界文化史上では名を馳せている。円仁の『行記』は年代が久遠し、古写本、影印本、活字本及び中国語で訳された英、法、日等多種の文字がある。
円仁は鑑真の三代目の弟子であり、日本天台宗を継承と完全された高僧である。日本天台宗の祖庭は中国にあり、日本仁明天皇承和三年(紀元836年、唐文宗开成元年)、すでに四十五歳であった円仁は毅然として政府が仕組んだ遣唐使について、日本比叡山延历寺が未決した天台教義三十条を携えて、「請益僧」の身分として入唐し仏法を求めに行こうとした。しかし、彼は日本第十八回遣唐使藤原常嗣 について二度も西へ渡ったが、失敗したのであった。そして円仁は承和五年、唐の文宗の开成三年(紀元838年)に第三度に船に上り、遣唐使についてまた訪祖求法のために入唐しようとした。今度は成功を納めた。彼らは六月中旬から出発した。円仁たちは離国してから、唐の开成三年(即ち承和五年)七月二日に海の中で十九日間の風浪揺れ動きで、九死一生になってから、揚州の海陵県の白湖鎮桑田郷東梁豊村に到着して、八月二十八日に揚州に着き、岸に上がってから、開元寺に住み入り、揚州で朝貢史を待っていた。翌年の開成四年(839)二月に揚州を離れて、ようやく楚州(江蘇淮安)に北上し、使節団と会合した。円仁は台州へは行けないのだから、策を立ててひそかに唐に残って、朝貢史について日本に戻らなかった。六月七日、円仁一行は登州文登県清寧郷赤山村新罗院について、ここでまた一冬を過ごした。開成五年二月十九日に赤山新羅院から出発して、登州(蓬莱)を経て青州に到着した。四月三日にとうとう五台山へ行った。四月二十八日に天台宗聖地—山西五台山にやっと着いた。赤山新羅院から離れた時より計算すれば、陸上で2300余里の距離を歩いた。日記で書いたように:「虚日を除いて、道中で行くことちょうど四十四日間。」五月一日より、五台を巡礼し、名僧に参謁して、天台座主志遠に延历寺の未決三十条を決釈してもらいたいが、志遠和尚は直接で彼の疑問に答えなかった。円仁らは五台山で二カ月間過ごした。同じ年の七月一日に五台を離れて長安に向かって進発した。八月二十三日に長安に着き、功徳使チ牒状をもらって、暫く資聖寺に寄宿することを許可された。円仁は長安で、元政に従って金剛界大法を受け、義真について胎蔵並蘇悉地法、また法全に師事して胎蔵を受けた。その後また改めて南天竺宝月に従って悉昙をならって、それに少なからず仏典や仏画を収集した。円仁は長安で一年近く滞在して、会昌元年八月頭になって、求法修行活動がほとんど終わった。従って彼は状を書いて功徳使に呈上して帰国を申請した。然し、事情の発展は本願にしかずにして、政治気候が変わったことによって、会昌二年三月、巡院帖報が資聖寺に到着し、原帖状令の保外客僧出寺に対しての処理意見は許可されなかった。もし武宗が廃仏した、天下の僧尼を俗に還させたり、強制出国させたりしなければ、円仁立ちは長安で留らせる時間がもっと長かったのかもしれない。会昌五年三月十六日、円仁一行三人は長安から逃げ出して、淮水(わいすい)を渡って江蘇の煦胎について、もともとここから直接に楚州に赴き、船を探して海を渡りたかったが、県家が許可しなく、必ず揚州に渡さなければならないのであった。江都によって江陽に渡されてから、ようやく楚州へ行くのを許可された。もともと「日本国の朝貢史がここから船に登って海を渡って帰国すると思ったが、円仁たちをここに渡して帰国させ、どうぞここから海を渡ってください」、こうすれば理屈通じるし、問題がないはずだった。しかし、山陽県が「当州はまだ海の極まりではない」と理由づけ、必ず「登州の地極のところに行かせねばならない」。そうして、円仁一行はまた千里の外にある登州に行かせた。会昌五年八月十六日、円仁一行はみすぼらしく二回目に登州に入って、相変わらず赤山新羅院に寄宿した。彼らは本来とりあえず一冬を過ごして、来年春に入ったら渡航帰国しようと考えたのだが、不意に政治気候が多変して、唐の武宗が「会昌排仏」を起こし、官吏たちが横行ばっこしていて、絶えずに遮りを受けさせられた。これは円仁に十分苦難させられて、二年余の苦労顛倒の後、ようやく唐の宣宗大中元年(紀元847年)九月に帰国した。帰国を求めるために、円仁は南北に走ったりしていて、曲折に力を尽くした最終に、やっと新羅の商船に間に合って海を渡って帰国したことができた。会昌七年九 月十八日に博多津につき、鴻臚館に入った。円仁は唐に入って求法巡礼して、承和五年(838)六月出航から、承和十四年(847)九月祖国の土地を踏んだ時まで、指で計算すると、その間に9年と3カ月間隔て、円仁は後期入唐請益僧の中で唐に滞在時間が一番長く、経歴が最も艱難曲折であった記録を作りだした。
もともと円仁は入唐して求法した時、彼の初願は仏教聖地の浙江台州にある天台山の国清寺に行って求法巡礼し、高僧にあって疑惑を解説してもらって、請益僧として(訪問学者)短期留学をしようと考えていたが、開成三年八月の初め、揚州府に到達した直後、急いで州衙に牒文を呈上し、台州へ師を探して疑を解決しようと申し出た。円仁は都に入る使節団のメンバーに入られなかったため、直接揚州から台州に行こうと思ったが許可されなかった。十月の初め、使節団一行35人が都に入って朝見に行った、円仁たちは揚州で大使たちの入京した消息を待っていた。天台禅林寺の僧の敬文が揚州に到達したとき、円仁は彼と筆談で情を通って、そして、敬文はさらに円仁に「先に斬って後に奏上する」、つまり、「先に天台に行って、それから勅許を待つ」という方法を取ろうと進めたが、これに対して、円仁は軽々でこれに従うことを恐れていた。開成四年二月、使節団は楚州に戻って、円仁たちは揚州から北上して楚州で使節団と会合して、台州へ行くことの始末がやっと分かった。当初大使が京に着いた日に、すぐに請益僧が台州へ行くことを奏上したが、礼賓使は「まだ対面する前にはすべてのことを奏聞できない」を意見とした、時間が余り無いので、再三に奏上するように促したが、相変わらず許可されなかった。結局のところ、朝廷の返事は:「使者たちの帰国日が近づいていて、揚州から台州までには、道がはるかに遠く、僧侶はそこに行って帰るときに、だいたい使節団が帰るのに間に合わないだろう、そうするとまた何によって本国に帰還できるか?依然として台州へは許さない。」その後「対面の日にまた奏上」して、「後にまた改めて奏上」したんだけれども、終始として許可されなかった。これで、円仁が台州へ行く計画の渇望は水の泡になった。このように、なかなか唐王朝の許可をもらえなくて、仕方なく予定を変えざるを得なく、もう一つ仏教聖地の山西五台山へ朝拝に行くことになって、その後また唐王朝の都である長安へ行って四年十カ月滞在した。
中国にいた約十年間、円仁の足跡が江蘇、山東、河北、山西、陝西、河南、安徽など七省に渡ったのだ。途中で、彼は灌頂を受け、梵語、中国語及び法華顕教、真言密教を学んで、経巻を書き、並びに曼荼羅買功徳幀を描いた。孜々にして厭わず、力を尽して学を受けた。同時に彼もまたひろく当時中国の上下クラスの官吏、僧呂、百姓と接触して、自分自身の目でその時代で起きた大小の事件を見ていた。この十年間の見聞や感想が、すべて一部の日記体裁で書かれた『入唐求法巡礼行記』の中に凝縮されたのであった。
2)『行記』:円仁は一生では著作が百余部あり、そのなかで最も有名なのは『入唐求法巡礼記』4巻がある。円仁が仏経に関系する典籍著作は甚だ多いのであるが、しかし、彼の特殊な貢献は彼が一つ価値の極めて高い史料である『入唐求法巡礼記』を世に残したことにあるのであった。此の本は日本承和五年(唐文宗開成三年、紀元838年)6月から始め、承和十四年(唐の宣宗大中元年、紀元847年)12月まで終わりのすべての見聞を、日記体裁で記録していたものであり、時間が10年近いほど長く、地域が中国の7省計20余州60余県に広い範囲に渡り、内容が晩唐の時代の社会経済、政治、宗教、文化、僧俗の交わり、季節、風俗及び唐、日、(新)羅関系など諸々方面を含め、広い資料的価値があり、日本の学界では非常に重視されている。
日本の学者の牧田諦亮は、日本の僧侶が日本仏教の母体と祖国である中国を遊歴して残った旅行記は、代表的な文献が大体3種類を挙げられる、天台の慈覚大師円仁の『入唐求法巡礼行記』四卷がその3種類の一つであると言っている。アメリカの著名な東アジア研究学者であって、かつてアメリカ駐日大使を務めたエドウイン•オールドファーザー•ライシャワー博士(Edwin O Reischauer)『円仁の日記:入唐求法巡礼行記』(『Ennin's Diary』)を題目として、1955年にそれを英訳にし、また注釈を付けて、『円仁が唐代中国の旅行』の本を編修し、同時でアメリカで出版したし、独、仏の二カ国語に訳された。赖ライシャワーは評価を言った:「ヴイニス商人のマルコポーロの世界ローミング記録は、それが人々の想像力を喚起するため歴史の長いコースで巨大な足跡を残している。しかし、円仁の旅行記は、今日になっても読んだ人はほとんどいないし、しかも彼の名を知られていない。それでも、円仁はイタリア人よりはるか早めにこの偉大な中国でその足跡を残したのである。ある意味では、彼が旅行記に残された業績はマルコポーロの記録を超えたのだ。」ただ時間的面からみれば、彼は『マルコポーロ行記』より 400年も早かったのである。托鉢僧として、円仁一行は天涯浪跡して、もっと深く社会人情、政治風雤を了解出来た。彼が記録された内容は、正史の不足を補正できるものがたくさんある。たとえば、武宗が廃仏の詳しい事情についてや、寺院の礼懺儀式についてや、唐の書儀尺牘についてや、などなど極めて貴重な資料を残したのである。日本学界は当該の本が「中国旅行記録の中で最も優れた本である」と言え、「東洋学界の至宝」と評価されている。
3)『行記』見聞:
①、運河:円仁は『行記』の中にたくさんの揚州見聞を書いた。彼は『行記』の中で言った:「江中に大舫船が満ちていて……小船等が数えきれない。」しかし、今現在では、河面にはすでに船の姿が見えなくなった。その原因は、当時の運河が確かに塩運、漕運の通路であり、百舸が流れを争いながら、行き来して数えきれないのであった。古い運河が町を避けて通り過ぎて行って、二十世紀五六十年代には、運河が湾頭から直接に揚子江に流れ入り、主航路となって、町区の古運河が既に観光地帯に建てられて、円仁は当時で見た舟船喧嘩の景色が消えてしまったのである。②開元寺:円仁は『行記』の中で書いた開元寺は当時の揚州にある大雲寺のことだった。『唐会要』巻四十八ではこのような言を書いた:「天授元年十月二十九日、両京及び天下諸州にそれぞれ大雲寺一所を置く。開元二十六年六月一日に至って、並びに開元寺に名を改めた。」(按:唐の時代では、都と各州の治所に勅命によって建てられた仏寺が置かれた。このような仏寺は、大幅が当地でもともと著名な大寺院から改称されて来たのである。)則天武后の時では、薛懐義等は『大雲無想経』(竺法念訳本)の中には、「一仏が没後してから七百年の後に女王になって世に降り、天下を威伏した」と語って、そこで『大雲経疏』を作って、武后受命の符とした。全国各州で大雲寺を広く建てられ、武后の統治を固めるために世論を作った。揚州の大雲寺が後になって開元寺に改称し、当然ながら、武后が残した影響を無くすための措置の一つである。円仁はこの古びた寺院で長い時間を渡って住んでいて、数少なくない政府官吏や高僧に合った。然し、開元寺がもう存在しない、ある資料によ れば開元寺はもとの城北郷卜楊村にあったと言っている、上世紀80年代、開元寺遺跡の上に捷康電器工場を建てられた。
4)円仁の功績:日本の比叡山延曆寺が天台宗の大本山であり、此の一系統の成り立つには、前は最澄がいて、後は円仁がいてから発揚拡大されたのである。現在の日本では、天台宗が一番盛んで、当該系統の寺院が三萬二千三百余所ある。円仁は比叡山で潅頂壇を開き、総持院を作って修法道場にし、念仏法門を提唱し、菩薩大戒を宣揚した。彼は日本で最澄に次ぎ天台宗の集大成者であり、比叡山延曆寺の仏教本山の基礎を作った。日本天台宗の弘揚は、その功績が最も大きいし、その影響が甚だ遠い。八五四年に円仁が六十一歲の時、延曆寺の座主(第三任)に勅任され、日本の貞観六年に亡くなられた。『入唐求法巡禮行記四卷』、『金剛頂経疏』、『顕揚大戒論』等を著作し、中国から帰国した時に仏経、儀規等八百余卷を日本に持ち帰った。
円仁は仏教教疏や儀軌、法器を携えて日本に帰った後、深く天皇の信任をもらった。それで、彼は比叡山で灌頂台を設けて、総寺院を建立して密教と天台教義を弘伝した;それで、「常行三昧堂」を設立し、浄土念仏法門を提唱した。854年に円仁は延历寺の第三代座主になり、最澄の遺志を引き継いで大力に大乗戒律を高揚して、寺に住んで10年間、日本天台宗を大きく発展させた。死んだ後に、清和天皇は慈覚大師の謚号を賜った。これは日本仏教史上で僧人が大師という尊称の始まりであった。
結論:
円仁は日本仏教天台宗の最澄に次ぎの集大成者であり、比叡山延曆寺の仏教本山の基礎を作った。日本天台宗の弘揚は、その功績が最も大きいし、その影響が甚だ遠い。彼は遣唐使について、唐王朝に渡って、九死一生を経て、日本の仏教のため、そして日中文化の交流のため、大きな役割を果たした。円仁が10年近い中国での紀行や巡礼して、そしてそのすべてが『入唐求法巡礼行記』に記録を収めったのであり、「東洋学界の至宝」と言われて、世界の三大旅行記の一つでもある。
参考文献:
「古代を考える『唐と日本』」池田 温編 吉川弘文館発行 平成四年六月二十日 初版印刷 『遣唐使の見た中国』古瀬奈津子 吉川弘文館発行 二〇〇三年(平成十五年)五月一日 初版印刷
『中日外交発展史』 2004 MPA中日関係
王頴芳
「国際関係当代亜太『中日人員交往の回顧と思考』」譚秀英 1999 年第12 期 『揚州日報』 揚州日報社主催 2008年2月2日
『円仁入唐散論』張志宏 百度貼バー
唐朝バー 2007-4-22 「円仁文化」 中国経済網
『人民日報』(2004年02月28日 第七版)人民網 人民日報 第七版 国际副刊
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