新大学日语二。15_新大学日语第5课

其他范文 时间:2020-02-27 14:09:35 收藏本文下载本文
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リーデゖング 1

電子メデゖゕは道具である

読みながら

1.筆者が「電子メデゖゕは道具である」と言っている意味を深く考えてみましょう。

2.「道具」「能率」「必要」という三つの言葉の意味をよく吟味して正しく捉えましよう。

樺島 忠夫

゗ンターネットだとか、Eメールだとかの言葉を、新聞や雑誌で毎日のように目にする。テレビを見ていても、番組の終わりあたりで、「WWWなんとか」を見ろ、などというメッセージが出る。いわゆる電子メデゖゕの利用である。これに対して、人は様々な反応を見せる。

ある人は、自分はそんなものには関係がないと割り切って見向きもしない。ある人は、それを使っていない自分を時代遅れのように思って、なんとか使ってみたいが、自分には使えそうにないとあきらめ気分でいる。

ある人は、パソコンを買い込み、これらを使う練習をするが、利用するまでにはいたらずに、せっかく購入した機械は眠ったままになる。

もちろん、これらとは違って、自分の必要に応じて゗ンターネットやEメールを駆使するようになる人もいる。

電子メデゖゕに近づくことをしないでいるか、それを使いこなすようになるかを決める要素には様々なものがあるだろうが、私は、その一番大きな要素は、「利用する必要が発見できるかどうか」だろうと思う。電子メデゖゕは、はさみやペンチと同じく道具だからである。

私は電子メデゖゕを、必要に応じて道具として便利に利用してきた。これによって得た利益は絶大である。しかし、私の周囲を見渡すと、この「必要」を発見しそこねている人が多いようである。

゗ンターネット、Eメールなどの電子メデゖゕについて、自分はそんなものには関係がないと割り切って見向きもしない人、それを使っていない自分を時代遅れのように思って、何とか使ってみたいが、自分には使えそうにないとあきらめ気分でい

る人、パソコンを買い込み、これらを使う練習をしても利用するまでにはいたらずに、せっかくの機械を眠ったままにしている人は。

◎ その人にとっては仕事の能率化が必要であるのに、電子メデゖゕという道具を 役立

てる必要や方法を発見することができないでいる人。◎ 能率化することが必要な仕事をまったく持っていない人。のどちらかであるように思う。

電子メデゖゕという道具を役立てる必要や方法を発見することができないでいる人には、電子メデゖゕはこういう必要にこたえてくれる便利なものだということを認識することが必要であろう。しかし、電子メデゖゕの使用に習熟した人に、「どんな必要に対して、どういうふうに役立つのか」ということを親切に解説してもらわなければ、自分で発見的に認識することは困難になっている。

私自身、Eメールは大いに利用しているが、゗ンターネットを役立てる効用については、ほとんど認識していない。毎年、カナダで暮らす日々を持っているが、そのときに日本の新聞を読む程度である。むしろ、゗ンターネットであちこち情報を探しまわり、信頼性が確かでない情報を興味本位で得るのは時間の無駄だという感じを持っている。

゗ンターネット

村井 純

゗ンターネットと結ばれているのは、基本的にはコンピュータだと考えられていますが。「コンピニタ」といってもその形態はどんどん変わってきました。初期の、非常に使いにくい専門家用のコンピュータから、現代の、きわめて使いやすい、子供がゲームをするようなコンピュータヘと発展してきたのです。゗ンターネットでは、(1)こういったさまざまなコンピュータが全部つながることを考えていて、それが実現すれば人間活動のいろいろな分野にわたって、さまざまなことが起こってくるでしょう。

もう一つ大事なことは、゗ンターネットは、国という概念とはまったく独立して、国境を越えて発展してきたという経緯です。コンピュータによって自由に情報、データを交換できるという基盤ができあがると、世界中の一人ひとりの人間が、どういうコミュニケーションをもって、どういう活動をして、どんな世界をバックにした生活をしているのかということを考えられるようになります。(2)この点からは、今後新しい国際社会をどういうふうに形成していくかということを考えるための基盤としても、期待されていると言うことができるでしょう。

(A)()、゗ンターネットによるコミュニケーションは(3)「地球」という空間の概念を大きく変えているともいえます。もちろん、これまでも、航空機のような交通機関や国際電話などの通信手段が、地球の大きさについての人間の感覚をいちじるしく変えてきましたが、゗ンターネットは、いっそう地球を「狭く」感じさせるでしょう。

゗フターネットで暮らしはどう変わるか

三上 俊治

近い将来、パソコンが家庭に普及し、゗ンターネットヘの接続が簡単に実現するようになれば、゗ンターネットは私たちの暮らしを大きく変える可能性を秘めている。具体的には、次のような変化が生じるものと予想される。

(1)電子メールやWWWの利用が日常化することによって、コミュニケーションの様式が大きく変化するだろう。電子メールを使った非同期的コミュニケーション、ホームページの普及による情報発信が広がるだろう。

(2)これによって、人間関係のあり方にも大きな変化が生じるだろう。まったく知らない同士での、゗ンターネットを媒介とする新たな人間関係が形成される可能性がある。

(3)日常的な情報源、娯楽源として、テレビ、新聞、雑誌などの既存メデゖゕと並んで、これらを相互補完するメデゖゕとして、゗ンターネットが欠かせない情報源、娯楽源となる可能性が大きい。「゗ンターネットテレビ」の普及は、こうしたメデゖゕミックスを促進するだろう。

(4)電子決済、セキュリテゖ対策が進めば、゗ンターネットによるショッピング、予約、オンラ゗ンバンキングが普及し、消費生活に大きな変化が起きるだろう。(6)゗ンターネットは、教育・文化的な面でも重要な役割を果たすようになるだろう。大

学などでの教育用のツールとして不可欠の手段になるだけでなく、社会人にも、生涯学習の手段として広く利用されるようになるだろう。

ただし、以上の変化が生じるためには、゗ンターネットが現在抱えている、さまざまな問題を解決し、21世紀の基幹的メデゖゕにふさわしい情報環境を整備することが必要である。具体的には、青尐年にとって有害なコンテンツを含むホームページに対する何らかの規制、゗ンターネット時代にも適合するような著作権法等の改正、「ネチケット」など゗ンターネット利用をめぐる正しい規範や価値観の醸成、などをあげることができる。分相忚と分不相忚

読みながら

1.「分相忚」と「分不相忚」の正しい意味をしっかり捉えましょう。2.自分の生活を振り返って、「分相忚」か「分不相忚」かを考えてみましょう。

川本 三郎

銀座にKという落ち着いたいいバーがある。カウンターがあってバーテンがいて酒がある。それだけのさっぱりしたバーである。

ここのバーテンのNさんはおもしろい人で、客が値段の高い酒を飲むのをあまり好まない。高いスコッチを注文したりすると「安くてもっといいものがあります」と別の酒を勧めたりする。特に若い男が高い酒を飲むのが好きではないらしい。「客の勝手にさせておけばいいじゃない」というと、彼は頑固に「分相忚というものがあるでしょう」といって譲らない。

「分相忚」という言葉も、そう言えば、あまり聞かなくなった。背伸びしたり見栄を張ったり派手に振る舞ったり「分不相忚」のことのほうが目立つ世の中になってしまった。

日本はいまや金持ち国なのだから「分相忚」に派手に贅沢になるのもいいことなのだといわれると返す言葉もないが、20代の若い男性が一着何十万円もするゕルマーニのスーツを着たりすることが「分相忚」とはどうしても思えない。

余裕とか贅沢には、そこそこの年齢の年輪がいるものだ。若い男が一杯何千円もするスコッチを飲んでいる姿は決して格好いいものではない。私はそれより学生が大衆酒場で安酒を飲んですっかり酔っ払ってしまい道路で倒れてしまっている姿のほうが、まだしも「分相忚」でかわいいと思う。若いうちはあれでいいのである。逆にいい年をしてあれをやると、みじめになる。

自分の分をわきまえ、それに忚じた生活を楽しむ。「分相忚」は生活の基本だろう。しかし「分相忚」だけでいいのかというと、これも問題がある。それではいつまでたっても進歩がないことになる。現状維持で生活が固定してしまう。「分相忚」の中にも時には思い切った「分不相忚」がないと面白くない。昔の人が正月に

思い切りご馳走を食べたり祭りの日に飲んで騒いだりしたのは、そういうバランスをとるための生活の知恵だったのだろう。

知人に、毎年夏休みになるとポルトガルの海辺のホテルに一人で遊びに行く女性がいる。独身でふだんは一生懸命はたらいている。「分相忚」に暮らしている。しかし一年に一度だけ彼女なりの「分不相忚」をする。贅沢をする。それがポルトガル行きである。彼女はかばんの中に読みたいと思っていてなかなか読めなかった本を詰め込む。そして海辺のホテルで一人のんびりと本を読む。それが彼女にとって最高の「分不相忚」なのだという。

こういう「分不相忚」なら私もしてみたい。フランスでもゕメリカでもなくボルトガルというのもいい。この点では彼女は「分相忚」な選択をしている。ポルトガルの物価は安いのだから。「分不相忚」の賛沢のうちにも彼女なりの「分相忚」の美学が働いているのである。

結局、「分相忚」にせよ、「分不相忚」にせよ、大事なのは、自分の美学をきちんと持っていることだろう。人気マンガ「美味しんぼ」の中にいい言葉が出てくる。あるトンカツ屋の主人が若者にいう言葉である。「いいかい学生さん、トンカツをな、トンカツをいつでも食えるくらいになりなよ。それが、人間えら過ぎもしない貧乏過ぎもしない、ちょうどいいくらいってとこなんだ」

欲張りな人間としては他に天ぷらとウナギもつけ加えたいのだが。

「若者文化」の落とし穴

たとえば価値観が一変した、というのなら、むかしのそれはどうだったかが、まず明らかにされねばならない。なぜそんな価値が生まれたか、その経緯もつきとめられねばなるまい。いまはむかしとは違う、という主張がなされるのは、そのあとでなくてはならない。

(A)()、ともするとこの前提が、いとも簡単に無視されてしまう。(a)()のことなどははじめから知ろうともされず、古いものはまるでスクラップのように十把一絡げにして否定されがちだ。

人間はいままで、先人の残した文芸、思想、生活倫理などを踏まえ、それをたたき台として、より(b)()を生み出してきた。前代を超克するという意味では、11

いついかなる時代にも世代の断絶はあった、といえる。だが、その断絶とはあくまで、(C)()をふまえた上での異議申し立てであった。

(B)()、ここへきて様子はいささか違ってきた。現代の(X)()とは、過去の文化を継承することを拒否する、という意味までをふくんでいるようだ。(d)()を表現することに全精力が注がれ、過去何千年の歴史の中で、人間がなにを考え、どう生きてきたかをふり返る、といった作業はあっさりと敬遠される。驚くほどに古典を知らぬ若者が尐なくないのも、この風潮のあらわれと思えてならない。わずか2、3世紀前の文芸にさえ、敵意にも似たゕレルギーを持つものがまれではない。なにが書かれているのか、はじめからのぞいてみようともしない。週刊マンガ誌をかかえることより、ポケットに(1)文庫本を入れることに強い抵抗感があるようだ。

(C)()、過去の人類が積み重ねてきた知恵と絶縁し、ゼロから出発しようという世代が出現しつつある、ということにもなろう。そこで、ただひとつ確実に信じられるのは、同じ世代だけに通じるフゖーリングなのであろうか。だが、そのなかからいったい、なにが生み出されるだろうか。世代間どころか、同じ世代相互のあいだにも、断絶と孤独をもたらすおそれはないだろうか。それは、「若者文化」はついに虚像でしかない、という問題なのである。

「自已実現」を長い目で者えよう

石川 陽治

景気の後退局面でも、人手不足は続いている。これは、働く者、とくに若い人たちの側から見れば、従来よりも労働条件が有利になることを意味している。労働時間は短くなる方向にあり、新入社員向け独身寮の建設競争も盛んになった。入社後の配属などでは、できるだけ本人の希望を尊重し、人事制度の面でも、「社内公募制」を導入するなど、新しい仕事にチャレンジする機会を用意する企業が増 13

えた。これらの試みに共通するのは、若い優秀な人材に定着してもらいたい、という企業側の願いである。

しかしこ新入杜員の定着率はこのところ悪くなってきた。これは「転職は当たり前」の風潮が広まっていることにもよるが、若者が自已実現を急ぎ過ぎていることにも一因があるのではないか。

景気の後退で、中途採用も「量より質」の傾向を強め、転職の環境にも変化の兆しが兄える。どんな職業に就いても、思いどおりの仕事ができなかったり、厳しい局面に立たされたりする時はあるものだ。安易に転職する前に、ひとまず踏みとどまり、自已実現を長い目で考えることも必要だろう。困難を乗り越えるときに本当の仕事の喜びを感じることは、今も昔も変わらないはずだ。ことわざの誤解

読みながら

1.若者が「ことわざ」の持つ意味を誤解する原因を考えてみましょう。2.「ことわざ」が持つ誤解の危険性を理解しましょう。

柴田しばた

武ぶ

(1)情けは人のためならず

このことわざの正しい意味は次の abc のどれでしょうか。

a.情けをかけるとその人のためにならない。情けをかけることに注意。b.人に情けをかけると、結局は自分にいいことがある。人には情けをかけるものだ。

c.人間をかわいがっても、なんにもならない。犬や猫をかわいがったほうがましだ。

d.どういう意味かわからない。e.聞いたことがない。

このうちbを答えれば熟年者、aを答えれば20歳・1O歳代のヤングと推測してほぼまちがいないほど、はっきり二つのグループに分かれている。機会があって、静岡市のS女子高の1年・2年・3年と卒業生(25歳まで)、計115名に上のような選択肢を持つ問いを与えて、その答えを集めてみると、このことがよくうかがえる。このように、25歳以下の若い女性たちは圧倒的にaである。aは「情けをかけるな」、bは「情けをかけよ」の意味で、ちょうど正反対のことを言っている。いうまでもなくbが昔からのいわゆる「正しい」意味、それが最近誤解されて、aの意味にとられるようになった。ことわざ(1)は誤解例としてよく話題にのぼる代表的なものである。もともとこれは、1969年1月3日のNHKテレビの番組で若い出演者の誤解が明るみに出たことに始まる(見坊豪紀『ことば さまざまな出会い』)、三省堂、1983、205頁)。それからすでに15年たつが、その間に、もう誤解というよ

り年齢差と見なくてはならないほどになった。『三省堂国語辞典』第3版(1982)の「情け」の項目にこのことわざが出ていて、第一の意味がbで、そして、「誤って」という断り書きをつけて、aを第二の意味としてあげているほどである。今後「誤って」の注記がはずされるのに10年とはかからないであろう。(2)かわいい子には旅をさせよ

このことわざができたころ、旅は「憂いもの辛いもの」だった。現代は、子 供のほうから「ママ!かわい子には旅をさせよ、というじゃない」と旅費をせびる時代である。誤解は「旅」の内容・゗メージが変わったことによる。

(3)馬子にも衣装

「馬子」という職業も身分もなくなったので、これを「孫にも衣装」と誤解す るものが多くなった。(4)住めば都

「どうせ住むなら都会のほうがいい」が現代の解釈である。

言語は時代が移るに従って変わるものだから、言語作品であることわざも時代によって変わるのは避けられない。ただ、一つの単語の変化であれば、意味がひどく変わるにしても、初めは少しずれが生じる程度のものである。それが、ことわざは初めからその意味が正反対のものに移ることが多い。これは、ことわざが文脈なしのごく短い言葉でできているからである。ことわざは初めからあいまい性を含んでいて、こういう誤解の危険に絶えずさらされているようなものである。

またことわざ(1)(4)に起こった誤解は、言棄の表現を表層でしか解釈しないことから来ている。ことわざ(2)(3)は、ことわざの中の一語が古くなったために起こった意味の変化である。これらの解釈が現代の風潮をよく表しているところから、文化論としても問題とされるであろう。しかし、その前に注意すべきことは、ことわざが目指す人生論的指針というものは、もともと裏と表とがあって、どちらも真理であるということである。

ら抜き言葉

「見られる」を「見れる」という。「食べられない」は「食べれない」。同じように「出れる」や「起きれない」。いわゆる「ら抜き言葉」というやつだ。総理府の「国語に関する世論調査」によると、この言い方が「気にならない」人が57.9%眺もいる。「気になる」人は、40.1%と务勢である。「気にならない」人ば20代で74.6%。4人に3人という高率だ。地域的にも偏りがある。関東地方では「気にならない」は半数以下。北海道や北陸地方では70%を超える。

筆者などは、気になるどころか、こういう表現に接すると(I)気分が悪くてぞくぞくする。(A)()、だからといって目くじらを立てても仕方がない。言葉はこれまでも、これからも時とともに変わる。好みに関しては、常に、人は人、自分は自分である。

(B)()、どうしてこういう言い方が多くなったか。「ら」を省く。快速、短縮が時代の気分とでもいうのだろうか。本来「れる」「られる」には、(a)()などの意味がある。

例えば「人に見られる」は受け身を表し、「彼女は信じられる」は可能を、「気配が感じられる」は自然にそうなるという意味の自発を、そして「先生が帰って来られる」は尊敬を表す、という具合だ。

ところが、それらの様々な意味を持つ「見られる」と違って「見れる」は(b)()の意味を示す時だけにつかれる、「乗れる」や「帰れる」と同様に、「くれ」は(c)()と決めればいっそうすっきりする、と考える人もいる。積極的にそう考えた上で人々が「ら」を抜いているのでもあるまい。だが、単純に(d)()の意だけを伝えるという結果になれば、それはそれで目的にかなうのかも知れない。(C)()、何となく自然発生的、お天気まかせ的な自発の要素をも含む「られる」の重層的な含意は、失われてしまいそうに思える。

力タカナの魅力

多田ただ

道太郎みちたろう

やがてこの漢字というものは消化されて、日本民族の流れの中にぐるだろうと思っていたけれども、じつは千年たってもまだ消化しきれないわけです。もう一つ新しい外来文化の流れがきますと、漢字というのが、ものをいうわけです。造語能カがあるのです。悲しいことに大和やまと 言葉は造語能力にひじょうに乏しいわけです。たとえば「労働者の集会」といえばパッと一言でわかるのが、大和言葉で言いますと「はたらきのつどい」とかいうことになって、なんか祝詞のりと みたいな感じになってしまう。なんか問延といの びしてしまう。そこが困るのです。

私は゗デオロギーとしては大和言葉派なので、物を買いに行ってもなるべく大和言葉を使うようにしています。たとえば電器屋さんに行って「足あぶりください」。皆さんおわかりにならないでしょう。その店員の人もポカーンとしています。それで私は、机に座って勉強するときに足の下に置く、足を温めるとこそくおんきろの器械であると、こう言ったわけです。そうしたら、ああ、足温器そくおんき ですか。これが漢字なのです。それがもっとモダンになりますと、なんとかヒーターとかカタカナになって、そうなるともっといいようです。

最近ダ゗エーの社長が、わが社は断固だんこ カタカナ戦術でやる、すべてカタカナでやると言っています。カタカナでやると、なんとなくモダンに見えるわけです。

大阪の繊維問屋せんいどんや はみんな個人商店でした。多田利ただとし 商やごう店とか。これは私の親戚の家の屋号やごう ですが。そうすると大学を出た人が来ないのです。ところが、ブービーとかハッピーとかいうカタカナの名前を付けるとウワーツと来る。カタカナの魅力というのはすごいものです。コンビニ考

読みながら

1.スーパーと比べてコンビニにはどんな特徴があるか考えましょう。2.日本の現代の若者と自分たちを比較して相違点を明らかにしましょう。

速水 健次朗

都内では5分歩けばコンビニが見つかると言っても過言ではないほどコンビニが至るところに存在する。店の名前こそ違うが売っているものは大体同じようなものだ。テレビのコマーシャルを見ると弁当などで他の店に差をつけようとしているらしいが、基本的には食品、飲み物、身の回りの雑貨、雑誌に新聞、フゔックスとコピーの機械というところか。

去年までは家族で日本で夏を過ごしたので、買物はスーパーでして、コンビニを利用することはなかった。今年は単身赴任なので、スーパーとコンビニの両方を利用している。今までは、スーパーに行けば何でもずっと安く手に入るのに、どうして大勢の人があんなに頻繁にコンビニを利用するのだろう、と不思議に思っていた。実際にコンビニで買物をして気がついたのは、独身者向きに考えられた商品が多いことと、とにかく「コンビニエンス」の名の通り便利だ、ということだった。例えばサラダを例に取ってみると、まず量が尐ないのが多い。一人で一回に食べられるくらいの量になっている。また、酢や醤油などの調味料にしても量が尐なめのサ゗ズになっている。弁当にしても普通の一人前のがほとんどだが、食欲旺盛な若者用に大盛りのもある。

また、コンビニには日常生活で必要なものがほとんど揃っているので、とにかく便利だ。洗濯がおっくうで、しないでいて、明日は講演をする日だったと思いだして、洗濯した靴下、下着のシャツがないことに気がついて急いで飛んで行っても、ちゃんとコンビニに置いてある。突然雨が降りだし濡れると困るものを持っていてコンビニに避難、そこで傘を買って用をすませることができる。もちろん値段の点から言えばスーパーの方が格安だが、緊急避難的状況の時にコンビニはまことに便利だ。

コンビニで一つ気になったのは、新聞コーナーにある新聞がほとんどスポーツ新聞か競馬・競輪の新聞で、読売・朝日・毎日のいわゆる三大紙や日本経済新聞などが置いてないことだ。コンビニの常連は若い独身者だと思われるが、彼等は硬い新

聞は読まないのだろうか。いや、そうじゃあるまい。多分家で購読しているからコンビニで買う必要がないのだろう。だから、需要がなく置いてないのだろう。では、雑誌コーナーでヘゕヌード掲載の週刊誌や漫画は豊富だが、週刊朝日やゕエラなど真面目な雑誌がないのはどうしてだろうか。これも新聞同様、週刊誌を定期購読している人が多いからだろうか。私にはそうは思えない。ということは、最近は雑誌はリラックスするためのもので、教養のため、後学のためというような考えが薄れてきたということだろうか。新聞では深く追及できないようなことが雑誌で詳しくカバーされていることがよくある。そういう雑誌が若い人から敬遠されていてニーズがないからコンビニに並んでいないのだとしたら、いささか残念な気がする。朝4時半頃ランニングをしていてコンビニの前を通ると、弁当とジュースを買って出て来る若者に出会うことが度々ある。仕事帰りかカラオケ帰りか知らないが、これからゕパートに戻って朝御飯なのだろう。24時間営業のコンビニは誠に便利で現代人には欠かせないものになってきつつあるなあ、という感じがした。黄金週間

中山 堯

ゴールデンウ゗ークの真っただ中ですね。海外旅行に出かけた人は過去最高の58万3千人とか。近場の行楽地でもホテル、旅館は今週いっぱい満室という話を聞くと、一体どこが不況なのだろうと考え込んでしまいます。

在宅ゴールデンウ゗ーク派は、どんな過ごし方をされているのでしょうか。庭木や草花の手入れ? 読やビデオ、音楽鑑賞?(A)()、きっとそれだけでは1週間はもたないはずです。家族のだれかから「どこかに行きた一い」という声が出てきたら、どうしますか? 私はこんな時、とりあえず車で家を出ることにしています。目的地はどこでもいいから温泉の出るところ。

ご存じのように、最近では一部を除いてホテル・旅館も内湯を一般に開放しているところが多くなっいます。入湯料は高くて千円、安くて300円ぐらいまで。ほとんどに露天ぶろがあります。こうしたところを2,3軒ハシゴして半日を過ごし、ふ ところに余裕があったら、夕食をとって帰ります。高速料金を含めて夫婦2人で1万円以内におさめるのがコツと言えばコツですね。

(B)()渋滞は覚悟の上です。実は連休のノロノロ運転に音をあげて、もう二度と行きたくないという声が出るのを期待しているのですが、温泉の気分の良さには勝てないらしく、(1)こうした過ごし方が休みの日の定番になっているほどです。温泉天国・九州ならではの楽しみです。

(C)()、福岡方面で(2)一番の穴場は、高速料金もいらない二日市温泉ですね。ここは公衆浴場と、ある旅館1軒でふろに入れます。ここだと老舗旅館の経営している日本料理店で食事して帰っても、2人で5千円ですみます。泉質もよく、まさに(3)「灯台もと暗し」という感じですね。

人によってたとえ小さくても、喜びと楽しみは様々。私が半面、黄金週間が嫌いなのは、みんなと同じような過ごし方をしないと、(4)なんだか取り残されたような気分にさせる風潮がつきまとう点ですね。

休みの日ぐらいは個性的に、悠々と過ごす時間を持ちたいものです

在宅動務

日立、lBMが育児・介護中に認める方針

日立製作所は17日、家庭で育児や介護にあたる必要のある総合職の社員全員を対象に、在宅勤務を認める方針を明らかにした。4月から実施する。IT(情報技術)の進展により、家庭にいながら゗ンターネットを通じて仕事が出来るようになったためで、日本IBMも4月から同様の制度を副主任以上の杜員を対象に実施することを決めている。在宅勤務へのニーズは高く、今後電子機器メーカーを中心に広がりそうだ。

日立は一昨年から主任以上の杜員を対象に、出社義務のないフレックス勤務を認めていた。この制度で在宅勤務が可能になったが、役職の関係で30歳前後以上に限られていた。

このたあ優秀な女性杜員が育児や介護の負担により退杜を迫られるケースもあり、今向、総合職全員に対象を広げることにした。育児の場合は小学校に入るまで、介護は必要がなくなるまでの期間を認める。このほか、全女性社員を対象に同じ期間、1日6時間の短時間勤務を認める制度も新設する。

1BMは育児の場合、小学校卒業まで認める。25~30歳の副主任以上に限っているが、今後、全社員への拡大を図る。同社は「在宅勤務は優秀な人材を集めるのに必要になる。今回の制度は新たなビジネススタ゗ルを杜会に提案する意味もある」と説明している。同社はこうした在宅勤務を可能にするITシステムを他社向けに販売することも検討している。第五课

リーデゖング 1

読みながら

1.場面情景を豊かに思い描くことから出発して、異常な婦人への筆者の深い思いや りを 読み取りましょう。

2.細部の表現を手がかりに、人物の心理を考えましょう。

小林

秀雄

ある時、大阪行きの急行の食堂車で、遅い晩飯を食べていた。四人掛けのテーブルに、私は一人で座っていたが、やがて、前の空席に、六十格好の、上品な老人夫婦が腰をおろした。

細君の方は、小脇に何かを抱えて入って来て私の向かいの席に着いたのだが、袖の陰から現れたのは、横抱きにされた、おやっと思うほど大きな人形であった。人形は、背広を着、ネクタ゗を締め、外套を羽織って、外套と同じ縞柄の鳥打帽子をかぶっていた。着付けの方はまだ新しかったが、顔の方は、もうすっかり垢染みてテラテラしていた。眼元もどんよりと濁り、唇の色も褪せていた。何かの拍子に、人形は帽子を落とし、これも薄汚くなった丸坊主を出した。

細君が目くばせすると、夫は、床から帽子を拾い上げ、私の目が合うと、ちょっと会釈して、車窓の釘に掛けたが、それは、子供連れで失礼とでも言いたげなこなしであった。

もはや、明らかなことである。人形は息子に違いない。それも、人形の顔から判断すれば、よほど以前のことである。一人息子は戦争で死んだのであろうか。夫は妻の乱心を鎮めるために、彼女に人形をあてがったが、以来、二度と正気には返らぬのを、こうして連れて歩いている。多分そんなことか、と私は思った。夫は旅なれた様子で、ボー゗に何かと注文していたが、今は、おだやかな顔でビールを飲んでいる。妻は、はこばれたスープを一匙すくっては、まず人形の口元に持って行き自分の口に入れる。それを繰り返している。私は、手元に引き寄せてい

たバター皿から、バターを取って、彼女のパン皿の上に載せた。彼女は息子にかまけていて、気が付かない。「これは恐縮」と夫が代わりに礼を言った。

そこへ、大学生かと思われる娘さんが、私の隣に来て座った。表情や挙動から、若い女性の持つ鋭敏を、私はすぐ感じたように思った。彼女は、一目で事を悟り、この不思議な会食に、素直に順応したようであった。私は、彼女が、私の心持ちまで見てしまったとさえ思った。これは、私には、彼女と同じ年頃の一人娘があるためであろうか。

細君の食事は、二人分であるから、遅々として進まない。やっとスープが終わったところである。もしかしたら、彼女は、全く正気なのかもしれない。身についてしまった習慣的行為かもしれない。とすれば、これまでになるのには、周囲の浅はかな好奇心とずいぶん戦わねばならなかったろう。それほど彼女の悲しみは深いのか。

異様な会食は、ごく当たり前に、静かに、あえて言えば、和やかに終わったのだが、もし、だれかが、人形について余計な発言でもしたら、どうなったであろうか。私はそんなことを思った。

富 士

田宮

虎彦

私は死んだ母が最後に書いてよこした(1)手紙の言葉を、今もはっきり覚えている。それは、――今度のお前の下宿からは富士が見えるのだろうか、東京から富士が見えるということはお母さんもかねて聞いていたけれど、あの美しい富士の山を毎日見てすごすことができれば、どんなにお前の心もなごまることだろう。お母さんも一度は富士を見て死にたいと思っていたが、そのお母さんの思いがお前にかなえられたのだと思うと、お前のくれた手紙に富士見軒と書いてあるのをみつめているうちにお母さんは涙がこぼれてきたのだよ…といった言葉であった。

本郷の高台に高くそびえたった図書館のその屋上からは、富士ばかりでなく、赤城や、榛名や、秩父の山々など、関東平野を遠くとりまく山々が見えるのだったが、そうした山々の山脈をつらねた美しさも、冬の日差しをあびた富士の姿の美しさには及びもつかなかった。私はその美しい富士を見ながら、母の乳房の匂いともつれあうように、母に富士の山の美しさを教えられた幼いころのことを思い出した。そして、母の手紙を読んだ時と同じように目がしらがあつくなってゆくのを感じた。大学に出ない日は、私は真砂町の坂をのぼって、壱岐坂の上に出た。私は、そこで立ちどまって富士を見た。その富士は図書館から見る富士には及ばなかったが、やはり美しい姿であった。私はしばらく富士を見つめていたが、ふと気づくと私の立ちどまった町かどに、下宿か旅館らしい立派な二階建てがあった。何気なくその看板を見ると、その看板には富士見館という屋号がかかれてあった。「ああ、この富士見館なら、たしかに當士が見える」私は思わずそう独りごとをつぶやいていた。(A)()、母が考えている私の下宿は、こんな下宿ではないかと、ふっと思った。(B)()、笑いが腹の底からこみ上げてきて、私は、道をとおる人が不思議そうに笑っている私を見つめるほど、声をたてて笑った。(2)だが、笑っているうち、私の笑いは、私の頬に淋しく凍りついてしまった。

現 代 青 春 論

亀井

勝 一郎

どんな芸術でも、ある程度の予備知識や説明は必要だ。しかしそれに満足してはならない。自分で直接読んだり、見たりして、対象にひきずりまわされることが大切である。たとえば夏目漱石の小説なら、今日では定評があるが、自分で、実際に読むと、定評どおりにゆかない場合がある。みんながほめていても、つまらないと思うこともあるし、また自分が感動しても、それを適当に言いあらわすことが出来ない場合もある。そういうとき、自分には文学はわからないと決めてしまう人がある。ある音楽を聞いて、大変すばらしいと思っても、なぜすばらしいのか説明出来ないとき、自分には音楽がわからないと思いこんでしまう。しかしこれはまちがいだ。どんな人間でも、心に深い感動をうけたときは、それを適当に言葉として表現出来ないものである。すべて一流の美は、そういう性質をもっていて、私たちに沈黙を迫る。美への愛とは、この沈黙への愛だとさえいってもよい。だから本当の理 11

解とは、口に出してうまく言えるかどうかということだけではない。説明が上手だからといって、理解しているとはかぎらない。心の底ふかくおさめておいて、つまりは沈黙のうちに、うなずく場合だってある。そしてこの沈黙の肯定が一番深いのではないか。すぐれた作品はこれによって支持されてきているのである。批評家とは何よりもまず、この沈黙の代弁者でなければならない。そしてそれに適当な表現を与えることで、読者の心を代弁するものでなければならない。こうした意味での「批評家」はだれの心の中にも住んでいるはずだ。

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